やせっぽち旅立ちひとり立ち Nucleus CMS MySpinaviCMS Rev.F02 2006-10-29T20:32:33Z <![CDATA[『シティ・オブ・ゴッド』―暴力の螺旋―]]> outsider 2006-10-29T20:32:33Z 2006-10-30T05:32:33+09:00
久々にガツンとくるすごい映画を観た。
耐えることのない暴力の連鎖…。

同時期に見た映画『ヒストリー・オブ・バイオレンス』はイマイチだったが、「ヒストリー・オブ・バイオレンス」なるタイトルはこの映画にこそふさわしい。

舞台はブラジル・リオデジャネイロ。「神の街」と称されたスラム街に住む人々の暴力に満ち満ちた現実を実話を基に描いている。キャストも実際にスラム街に住む少年たちをオーディションしたそうだ。

映画史上類を見ぬほど過激で悲惨な内容なのに、映画のつくりが非常に軽快かつスタイリッシュであるところが素晴らしい。
一気に走り抜けていくようなスピード感も秀逸。]]>
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<![CDATA[橋本健二『階級社会』]]> outsider 2006-10-27T08:22:50Z 2006-10-27T17:22:50+09:00
今階級や格差を研究する者は、少なくとも三つのジレンマを覚えるのではないか。
第一に、格差論ブームに乗っかってるような気恥ずかしさ。
第二に、これは著者も繰り返し述べるが「階級」などという言葉を持ち出すことで、極端な思想の持ち主だと誤解されないだろうかという危惧。
第三に、これは例外もいるだろうが、研究が自分自身に跳ね返ってくるという点。格差だ再生産論だと論じたとき「じゃあ、自分は?」となる。研究と実際は別物、と割り切る人もいるが、それじゃなんだかしっくりこない。

まあそういう中、流行の格差論を読み直し、問題を整理してみようと考え、取っ掛かりに階級研究の社会学者として業績のある橋本氏の新著を買ったのだが、とても面白く一気に読み終わった。
著者の特徴は「階層」ではなくあくまで「階級」という言葉にこだわる点にある。階級研究の系譜も分かるし、昨今の格差論についても総括・批判されており、本当は「何が問題なのか」を考えるのには格好の書である。参考文献やデータも有難い。個人的には二章の東京論がとても面白かった。

ただ幾つか残った疑問点のうち一例を挙げておくと、まず苅谷剛彦氏を単純な「ゆとり教育批判論者」と括ってしまうのはあまり正確とは言えないこと。苅谷氏の論を単純にし過ぎているきらいがある。そして、著者の「学校教育に格差を縮小させる力はない」というのは頷ける見解ではあるのだが、このように教育の無意味さばかりを強調してしまうことは、ニヒリズムに行き着くだけのような気がしてしまうこと。

また、最後に提示される「中間階級の労働時間の短縮」という解決案についてだが、実際フランスなどで実施されたが功を奏していないという報告も聞いている。この点もまだまだ議論の余地がありそうだ。

最後に。格差拡大、その当否は断定しがたい。しかし、過去に比べて格差が拡大していなくちゃ格差を問題にできないかといえば決してそうではないと考えている。たとえ社会の中で格差が改善されてきているとしても、問うべき課題は依然多く残されているはずだろう。]]>
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<![CDATA[桐野夏生『I'm Sorry,Mama』]]> outsider 2006-10-26T17:56:34Z 2006-10-27T02:56:34+09:00
『グロテスク』に比べると、読み応え、物語構成、完成度どれをとっても不十分であるという感は否めないが、やはり面白い。息つく間もなく一気に読まされる。
連載小説にありがちな結果だが、正直、話の主旨に関係ない無駄な部分が多い。「あれ、あの人結局なんだったの?」と思う人物が多い。登場人物もやたらに多い印象がある。完成度は確かにイマイチ。

しかしだ。物語上はエキストラに過ぎぬ人々が必要以上に細かく描写されていること、これを無意味だと言い切ることもできない。
それぞれの人々の物語が、短編として成立するくらい濃厚で何らかの形で「母」をテーマにした物語を奏でている(オムニバスのようでもある)。そんなそれぞれの人々の、それぞれの「母」の物語を「破壊者」の如く横断し、問い直していくような一人の怪物女がアイ子。そして、その女とは誰よりも「母」に執着する怪物。いささか強引だが、そういう作りになっている、と僕は読む。

アイ子を「怪物」にしたものは何か?
「邪悪者」の遺伝に因るものなのか、売春宿における幼少期の経験なのか、いわゆる「遺伝か環境か」の当否について作者は意図的に曖昧にしているといえるだろう。
最後アイ子は夢の中でエミさんに、「母性愛は?」と問う。しかし冷たくこう返される。

「んなもん幻想に決まってるさ。皆、ラクになるために、自分に暗示をかけてるんだ」

ジェンダー論において近代の「イデオロギー的産物」と糾弾された「母性愛」なる言葉…。エミさんの言葉は決して間違いではないだろう。
それでも、この物語は本質/構築主義といった次元を超えて、「母の愛とは何か」という問題の難しさを強く突きつけてくるのである。]]>
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<![CDATA[映画『ビッグ・フィッシュ』と「物語り」の哲学]]> outsider 2006-09-25T11:45:08Z 2006-09-25T20:45:08+09:00
授業のテキストで野家啓一『物語の哲学』という本を読んでいる。その発表を控えている僕なのだが、この本が喚起しているテーマを映画という手法で見事に体現している!と思わせたのが、この『ビッグ・フィッシュ』だ。申し分なく誰にでもお薦めできる映画だが、発表のこともあって「物語る」ことの哲学と結び付けつつ興味深く鑑賞した。
民俗学者・柳田國男が抱えていた問題意識も本作のテーマと重なる。柳田は、「ありのまま」の真実が尊ばれ、「自由なるウソ」が排撃される近代社会の一般的風潮の中にある種の不健康さを感じていたという。われわれの日常生活においては、「語る」ことは奨励されても「騙る(かたる)」ことは厳しく戒められている。つまり、「実」が尊ばれ、「虚」は排撃される。しかし、事はそんなに明瞭でもなければ、簡単でもないんじゃないか?そんな考えが問題の出発点にある。『物語の哲学』を読みながら、事実を語るとは実際不思議なものであると考える。われわれは美しい景色をみたとき、自分の感動や美しさをどんなに正確に誰かに伝えようとしてみても結局は徒労に終わってしまう。しかしそれとは反対に、どんなに見慣れた退屈な景色でも天才的な詩人の言葉にかかれば、それはたちまち不思議な美の形象へと変ずることもある。言葉というのは常に対象を「過少」に、あるいは「過剰」に語ってしまう気まぐれな装置だというわけだ。「事実を語る」とは多かれ少なかれもともと何らかの創作行為であるという気がする。野家の言うとおり「真とは専ら実の側につくものではなく、むしろ実と虚のあいだに存するもの」ではないか?

主人公のエドワードは、自分の過去の経験に過剰な脚色を施して語り、聴衆をひきつけ、人々の人気者であった。しかし、一人息子のウィルは、子どもの頃からさんざん聴かされてきた父親の「ホラ話」にうんざりしており、「父を理解できない」と、ずっとわだかまりを抱えて生きてきた(ウィルの職業が「事実を伝える」ジャーナリストであるというところもこの映画の核である)。そんな父親に死期が迫ったとき、長らく続いた静かなる対立に決着をつけるべく、ウィルは久々に実家へと戻る。永遠の別れの前に「本当の父を知りたい」と…。
「あなたの事実を知っておきたいんだ」と言う息子に対し、父親は苛立ちを隠せず主張する。たとえ誇張やレトリックが含まれていようとも、私は事実を語っているのであって嘘をついてきたわけじゃない、と…。

物語のラストは感動のクライマックス。息子が父親を理解したという事実を、言葉ではなく巧みなストーリー展開の中で表現するところがこの映画の素晴らしいところだ。主観的な考えが変われば、自分の見る客体にも変化が生じる。彼が知りたかった「本当の父」とは、紛れもなく自分が見てきた、よく知る父だった。二人の和解によって生まれた、共作とも言える最終章は見事の一言。

この映画が突きつけてくる問題の一つは、「嘘」と「フィクション(虚構)」の違いは何か?ということだろうが、なかなか言葉で説明するのは難しい(ちょうど僕の発表担当はその問題をめぐるJ.L.オースティンやJ.サールの見解についてなのだ)。ここ最近、僕は桐野夏生氏の小説を片っ端から読んでいたのだが、彼女の小説のメッセージを考えていたら、ふとこういう結論が導き出された。小説というのは虚構の物語を構築しつつも、結局は「真実」あるいは「真理」を追求するものなのだ、ということだ。虚構は現実を照射する何ものかなんだ、と。彼女が「虚構はもう一つの現実」と言うのもそういうことだろう。

まあなんともまとまらぬ感想文になってしまったが、この問題は今後もう少し突っ込んで考えてみたいところだ。ちなみに、『ビッグ・フィッシュ』とは「ほら吹き」の意だそうだが、日本語でも何かと「ホラ」関連の言い回しには魚が比喩に用いられていることに気づく。「逃した魚は大きい」とか「話に尾びれをつける」とかね…。]]>
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<![CDATA[桐野夏生『グロテスク』]]> outsider 2006-09-23T19:25:00Z 2006-09-24T04:25:00+09:00
長い作品ですが、今月文庫版も発売されましたし、多くの人に是非読んでいただきたいお薦めの小説です。この作品が長い理由は、複数のストーリーが並列しているからなんですね。ここから5,6個の独立した小説が作れるといっても言い過ぎではないと思います。それでも、それぞれの話の繋がりは読みきってみてやはり重要なんだなと思いました。様々なテーマが錯綜しているので整理してみる必要があります。
この小説は1997年に実際に起きた「東電OL殺人事件」を題材にしています。これは、東大卒の父親を持ち慶應大卒で東京電力に勤務する「エリートOL」が殺された事件なのですが、実は被害者が昼間は一流企業に勤め、夜は街娼というまったく別の顔を持っていたことが分かり、マスコミが興味本位に取り上げ、被害者および家族のプライバシーをめぐって様々な議論が喚起されたことでも有名な事件なのです。
作者の桐野さんは自身のHPでこう述べています。

「どうして、あのOL殺人事件を取り上げたのか。よく聞かれる質問ですが、私は事件当時、マスコミがなぜ熱狂して報じているのか、全く理解できませんでした。一流企業勤務、一流大学卒、夜の街娼。こういう「記号」に男たちが発情しているような印象を受け、好奇心だけで被害者の身許や行動を露わにしようとする様が非常に不愉快だったのです。もしかすると、世間の男たちを発情させる「記号」そのものが、彼女を苦しめ、夜の街に立たせるに至ったのではないか、という印象を強く持ちました。だから女の私が書いてみようか、と思った次第です。」

実話にヒントを得て書かれたものとはいえ、登場人物や内容は完全に作者によるフィクションであり、読めばそんなことはすぐに忘れてしまい、純粋に楽しめる物語です。これを読んでみて、感想は山のようにあるのですが、ここでは二つに絞ってみます。

まず作品の構造の話をすれば、「藪の中」という手法に注目できます。複数の語り手によって綴られるこの小説、結局、誰が真実を語っているのかが分からないのです。そしてこの小説も芥川のそれと同様、結局のところ真実が何かを詮索することには大して意味がないわけです。僕個人は、この小説を読んでみて、自己認識または自己評価というのがどれほど難しいことか、ということを思い知らされ愕然としました。自分が自分を正確に把握するのは本当に難しいのです。結局のところ、どう繕ってみたって人間誰しも「自分は正しい」し、自分は「実は」賢いし、「自分に限って」なんて思っているわけです。この作品のラストの意外性は、われわれが依拠してきた語り手の「私」への信頼性が失われるところにあります。いつも周りの人間について、「見栄や欲に振り回される者たち」として冷ややかな目で客観視していた語り手=「私」だったのですが、最後のほうで何十年ぶりに再会したクラスメイトから発せられた意外な真実によって彼女の独白の信憑性が揺らぐのです。「私」のそれまでの語りを「嘘」とまで言ってしまうと少し違うのですが、語り手がいかに自分に都合よく過去を語っていたかということに読者は気づかされるわけです。
人は自分に都合よく過去を物語りますが、さらに気づいた重要なことは、思いっきり自分を貶めて語っているときでさえ、それが当てはまるということですね。自己卑下の最中にもある種のナルシズムあるいは自己擁護が介在しているということです。
別の本の解説の中で、ジャン・ルノワールの映画中のこんな印象的な台詞が引用されているのを思い出しました。

「この世には恐ろしいことがひとつある。それはすべての人間の言い分が正しいということだ。」

もう一つの重要なのはQ学園を舞台にした「階級社会」というテーマです。この小説でも最もインパクトのある箇所だと思います。明らかに慶應義塾をモチーフにしたグロテスクな人間関係の有様は必読です。

「あなたがどんなに努力しても報われない世界がQ女子にはある。いいえ、この世はほとんどが努力しても報われないものに満ちている。」
「ここは嫌らしいほどの階級社会なのよ。日本で一番だと思う。見栄がすべてを支配しているの。だから、主流の人たちと傍流の人たちは混ざらないわ。」

登場人物のあいだで交わされる台詞の随所にそれが表れています。
大学に通っていて僕自身は考えたことがなかったのですが、言われてみればきっとこれは事実だろうな、と特別印象に残ったのがこういう話です。

「あたしたちは下から来ることが最上級であるかのようにQ学園で学ばされた。高等部よりは中等部、中等部よりは初等部、初等部ならば、兄弟姉妹や親や親戚もそうでなければいけない。生え抜き。それが最高の位だったからよ。本当に馬鹿馬鹿しいことね。」

佐藤俊樹『不平等社会日本』の序章に書かれた「究極のお嬢様」の話を思い出しました。詳しくは書かないけれども要するに、世間で言うところの「お嬢様」にも本物と偽者があるわけで、つまるところ「究極のお嬢様」たるには名のある有名病院で生まれていなくちゃぁいけない、というところまで行き着く、という内容です(詳しくは著書を読んでみてください)。そこには「努力すればなんとかなる」なんて話はとうに排除されているわけです。
「不平等」ということについていうならば、この世がいかに男性の論理で成り立っているかという「男性支配」の社会構造を見事に照らし出している点も重要です。これもまた「努力すれば…」の論理が通用しない世界なのです。描かれるのはひたすら女同士のグロテスクな闘いであるように見えるのですが、その闘いとはそもそも「男性支配」の構造によって生み出されているということに読者は気づかされるわけです。
作者は「この小説の中にこの世の差別のすべてを書いてやろうと思った」と述べているそうですが、貧富・男女・美醜・家柄・地域・勉強…誰も差別と気づかないようなもっと些細なものまで、すべてを盛り込んだ小説に仕上がっていると言えましょう。

まあ、この小説、とにかく女子校の描写が印象的です。その辺にあまた転がる教育関係の評論や専門書よりもリアリティがあり、説得力があるのではないでしょうか。入念なフィールドワーカーの仕事さえ髣髴させる作品です。陳腐な物言いになりますが、ニュースの伝える「事実」が決してありのままの現実を教えてくれない反面、フィクションの世界が現実を如実に物語ることもあるわけです。教育学や社会学といったアカデミックな研究では決してできぬ「フィクションだからこそできる仕事」…それに羨望を覚える自分がいます。

あと感想を一つ。和恵の生き様を読みながらしきりに思ったことです。「誰もに良く思われたい」という強い願望は、いとも容易く「誰もに気味悪く思われたい」という対極の願望へと変転するということ。…なんて書いてみてもピンと来ない方が多いと思われますが、そんな微妙なところにリアリティを覚える最近の僕です。
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<![CDATA[スーパー・ピッポ!]]> outsider 2006-03-10T14:36:21Z 2006-03-10T23:36:21+09:00 “武田ゴール”
おいしいゴール、俗に言う「ごっつぁんゴール」のことを、かつてそれを得意とした元読売ヴェルディの武田修宏の名を冠し、俺たちはそう呼んだ。

ACミランに所属する“スーパー・ピッポ”ことフィリッポ・インザーギも「武田ゴール」の名手である。昨日のチャンピオンズ・リーグ一回戦、バイエルンのGKカーンから2ゴールを奪う大活躍だった。決して格好のよくない彼らしいゴールだった。
いまや彼も32歳。若かりし頃からその甘いマスクがイタリアの女性に人気だったわけだが、凛々しくなった今の顔のほうが俺はかっこいいと思う。オッサンになったほうがイケるタイプかもしれない。
実はインザーギは古くから贔屓の選手のひとりだ。全然巧い選手じゃない。走り方もなんとなく不恰好だ。おそらく一部のサッカーファンにしてみたら、苛々する選手なのかもしれない。シェフチェンコやジラルディーノに比べたら技術は劣るし、シュートやスピードでも負けている。
それでも持ち前の瞬発力とゴールへの嗅覚を頼りに、パルマ、ユベントス、ミランと常に世界のトップチームでゴールを量産してきたわけだ。まるでボールのほうが彼の足のほうへ吸い寄せられるようなのだ。でもそんなありきたりな紹介どうこうよりも、No Reason熱い男なんだな。彼のゴールは「すげえ!」「うめぇ!」と感嘆するようなもんじゃなく、胸を熱くさせるような筆舌にしがたい感動がある。好きだなぁ。
ワールドカップ出場の可能性も噂され始めている。元チェルシー監督のラニエリも最近リッピにこう推薦したそう。
「私ならインザーギを連れて行く。スキラッチを思い出すよ。」
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<![CDATA[スウィング・キッズ]]> outsider 2006-03-09T06:23:51Z 2006-03-09T15:23:51+09:00 舞台はナチ政権下のドイツ・ハンブルグ。ダンスホールに集まりスウィング・ジャズを踊る若者は「スウィング・キッズ」と呼ばれた。
スウィング・キッズのひとりである主人公ピーターもナチスに抵抗する若者だった。しかし、ある日、ラジオを窃盗し捕まったピーターは、少年院行きになるところをゲシュタポのクノップという男に救われ、彼の提言に従い否応なくヒトラー・ユーゲント(H.J)に入団する。親友のトーマスも、ピーターへの友情からH.Jに入団。一方、足が不自由でダンスのできないギター弾きのアーヴィットは、HJによって大切な指をつぶされてしまう。トーマスはしだいにナチに洗脳されていき、三人の友情は引き裂かれていく・・。

最も印象に残るのはアーヴィットの演説だ。ダンスホールでアーヴィットに対してHJの連中が祖国の歌を弾くようリクエストしたとき、彼はその要求を頑なに拒んだ。「一曲演奏すればそれで済むことじゃないか」という周りの友人の声に対して、「たった一曲でも演奏すれば、それは奴らに加担することを意味するんだ!」と熱弁する。その夜アーヴィットは自ら死を選ぶ。
この孤独な芸術家の真摯な抵抗がこの映画のクライマックスである。ファシズムがいかに完成するのかが鮮明に伝わってくる映画だ。人々を抑圧し、強制するというよりも、自発的に働く主体を作り出す、そんな権力のイメージだ。「ほんの少し」のつもりで「加担」したら、それこそ最後なのである。思えば戦争シーンは一切出てこない。当然のことだが、戦争は戦場だけで起こっているのではない。
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<![CDATA[KIFCカップ優勝]]> outsider 2006-03-06T02:35:34Z 2006-03-06T11:35:34+09:00 @春日井インターフットサルクラブ]]> http://my.spinavi.net/outsider/:1:126 <![CDATA[High and Dry]]> outsider 2006-02-06T13:15:18Z 2006-02-06T22:15:18+09:00 (↑写真はyuiyuiのブログから無断転載☆)

ゼミ合宿に行ってきました。いよいよ最後です。富士山のすぐふもとにある絶景の宿舎でした。
卒論の口頭試問もなんとか無事終わりました。
今年は大きな問題もなく夜も無事に過ごせました。というのも・・
飲み会となると一人や二人くらい平気で殺してしまう、近代の掲げる個人の自由という理念を脅かすあの凶悪な犯罪者yuiyuiが事件を起こさなかったからです。すなわち、今年は「メシアが降臨しない」という奇跡が起こったわけです。
五時ごろ就寝しましたが、七時過ぎには心地よく目覚め、朝風呂にも入れました。そして初めて富士急ハイランドに行きました。
「ねぇ、遊園地行こうよ☆」
「そんなとこ行かねえよ。」
「じゃあいいよ、あんた置いていくから。」
「いや、別に行ってもいいけど。」
と、とりあえず悪ぶっておいて、遊園地に行って一番はしゃぐタイプはこの僕です。
こんなに大勢で遊園地に行くのは中学校の修学旅行以来でしょう。氷点下の中鼻水垂らしながらワイワイしたのです。やっぱりドドンパってのは凄いです。わずか一秒強で時速172キロに到達するというとんでもない乗り物です。
個人的には、ルーレット型で縦になってクルクル回る乗り物が怖かったです。なぜなら、従業員のアニメみたいな女の風貌や行動が明らかに怪しかったからです。あの従業員に対する恐怖を含めたアトラクションなのでしょう。
あとはお化け屋敷ですね。全長700メートルもの距離を階段を上がったり下がったり歩いていくのです。「ていうか、サカイくんのほうが、お化け屋敷の中にいそうだよね。」「ほんとほんと!バイトとかやってそう。」「きもちわるーい」と女子大生は平気でひどい事を言うわけです。ゼミのギャル三人を引き連れ、先頭に立って独り言を言いながらビクビク歩いていたのですが、困ったことにお化けさえ僕にかまってくれないんですね。後ろの三人ばかりおどかすので、やることなくなってしまい、ペンライトをお化けの顔に当ててみたり、むしろお化けに協力していましたね・・

そんなこんなで遊園地は楽しいですね。この合宿ではうっかりはしゃぎすぎたので、二年生のみんなが引いているのではないかということだけが気がかりですが・・。
みなさんお疲れ様でした。
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http://my.spinavi.net/outsider/:1:123
<![CDATA[未来思惟]]> outsider 2006-02-01T21:41:28Z 2006-02-02T06:41:28+09:00 ]]> http://my.spinavi.net/outsider/:1:122