江本勝さんの『
水は答えを知っている』は、
結構賛否両論ある本だ。
私は書店で写真をばーっとナナメ読みしただけだけど、
映画『
What The Bleep Do We Know !?』を見たことがあって、
その中でキーコンセプトになっていた。この話。
ありがとう、とか、よい感じ(波動)の言葉を聞かせたり、
ラベルを貼っておいたりすると、水の結晶が美しくなる、ということだ。
映画だと、、”言葉が水にこれだけの影響を与えることが出来るのだとしたら、
身体の70%は水分で出来ている人間にはどれほどの影響を与えているのだろう”という問いに続く。
(映画自体は、ストーリーと、物理学者、医学者、神学者等へのインタビューがぐるぐると混ざり合っていて面白い。
想いが現実を創ったり変えたりすることが出来るか、というのがテーマ・・だと思う)
私はありだと思う。この話。
水に言葉の善悪がわかるんかい!
とかいうことじゃなくて、
明るく優しい想いと、暗く批判的な想いじゃ、
水だろうが人間だろうが動物だろうが、
伝わり方があきらかに違うだろう、ということだ。
こういうことは証明もなにも
日ごろ私たちは、感じながら、調整しながら生きている。
で、私が驚いたのは、
この話を道徳に使う人がいるんだということ。
いい言葉は水にこういう影響を与えます。
ですから、人間にもいい言葉を使いましょう・・。
という話に持っていくようだ。
素直な人ならいいんだけど、
普通先生が突然こういう話しちゃったら、
「うちの子になにオカシナこと教えてるんだ!」って
怒鳴り込んでくる親とか・・・いると思うよ。
というかいるみたい。
お疲れ様であります。
うーむ。
道徳に使いたくなる気持ちはわかる。
わかる、、んだけど、
なんだろうな、ちょっと逆な気がする。
もし、もしさ、今後、想念が物理的現象に影響を与えるってことが
どんな科学者の目にもあきらかになったとしてよ、
「だから悪口はやめましょう!」
って道徳でやるの?
・・やるんだろうなあ・・・・。
なーんか違うんだよねぇ。
「警察につかまるから悪いことしちゃだめ!」とか、
「隣のおじさんに怒られるからそれをしちゃだめ!」とか
抜かしてる親と一緒だよね、それじゃ・・。
大学くらいでやる心理学なら、”人間の物理学”だから、
自分がこう出れば相手はこう出ます、
みたいな法則性を教えて、それを踏まえてコミュニケーションを取る
っていう話をしてもいいけれど、
心理学じゃなくて、小中学生がやる道徳、っていうのは、
つまり、愛、でしょ?
愛はさ、水の結晶がきれいになるからいいことをするんでも、
隣のおじちゃんが怒るから悪いことをしないんでもなくて、
とにかく愛なんだよなあ。
理屈はいらない。
ジャストビコーズ! どうして? どうしても! っていうやつ。
たとえば、、
”なぜ人を殺してはいけないか?”
とかを理屈で教えるんじゃなくてさ。
そりゃいろいろあるよ、言い方は。
”人間には基本的な権利として〜”でも、”あなたが人を殺してはいけないんじゃなくて、あなたが殺されないでいられるという権利のことですが何か?”でも、”殺してもいいけどそれ相応のリスクを考えてね”でも、、、、。
そんなんじゃないと思うんだよなあ道徳って・・・。
親がさ、「人?殺す?ありえるかそんなこと!!!そもそもそんなことをいいかいけないか問うようなバカに育てた覚えはねえ!」って
心から真剣に怒ればそれでいいでしょ。
伝わるよ。
何でそれを「理屈」や「理論」で説明しないといけないんだろ。
ううむ。
人に悪口を言っちゃいけないかどうかは、
結晶の形の話を持ち出さなくても、
言われた人の気持ちになればそれで分かるよ。
そういう普通の共感力を持った大人をたくさん見てれば、
普通に学ぶよ。
昔っからそうやって伝えてきたんじゃん。
美しい言葉で、水の結晶が美しくなることは素晴らしいけれど、
それ以前に、
美しい言葉で、人が美しいんだよ。
美しい言葉で、人が幸せなんだよ。
美しい言葉で、人が楽しいんだよ。
知ってるでしょそんなこと。みんな。
理屈じゃなくて、現実を見ることにどれほどのインパクトがあるか。
そーいうの自らの身をもって示すこと、
親や先生が放棄してどーすんだろ。。。