My Spiritual Knowledge

女です、女。1970年代後半生。普通の社会人。趣味は昼寝。夜はなかなか寝ないのにね。他に無駄に多く4つブログをやってるんですが、そっちではリアルで知ってる人も見るからなんか照れてスピ心を出せずにいるので、誰も知らないこちらは出来ればスピ中心で行きたいと思います。カテゴリ分けは、”★カテゴリ外”は自分が思ったことメモ、”●hogehoge”はそれぞれ個人的にスピリチュアリティの法則だと思っている事達のまとめ。続々増設予定。

2006-11-01

読む/書く 聞く/話す そして。

某うさ占い(占いなのか?)でもしっかり「うう女」、
解説の”相手が何を言ってるかよりも自分が何を言いたいかでいっぱいいっぱいになることが常です。”もいやはやその通りと思う今日この頃の私。

そうは言っても自覚はしているつもりなので、 読み/書き と 聞き/話し のバランスはそんなに悪くないと思う。


ただ、なんでもそこで「満足」して終わっちゃうんだよなあ。
自分が「納得」できるとさっさと忘れてしまう。何でも。
過去のことになっちゃう。


”あああの人が悩んでるのは、いつか私も通り過ぎた気のする道”


という場面に出会っても、それに「興味がない」状態に既になってしまっている場合、
フィードバックもなにもせずスルーしてしまう。。


このブログも久々に見返すと、
自分としては「終わった話」ばっかりで(あたりまえだけど)
いまいち興味が持てない。
でも、その時その時に記録していたっていうのは
いいことだなあ。
ブログえらい。
じゃないと、最期に、(考え終わったことを)全て忘れて、

ああなんか何にも考えてない人生だったなあ私

とへこみかねない。。。



ちょっと考えた。

もう読まなくていいやとか、もう書かなくていいやとか、
もう聞かなくていいやとか、もう話さなくていいやとか、

思う日はくるかなあ。


あとは実践するだけだ、っていう心境になって、

そして最終的に、


あとは”在る”だけだ、

って心境になる日はくるかなあ。
そういうのいいなあ。



・・来ないな、私の場合きっと。

読みながら書きながら聞きながら話ながら頭がぐちゃぐちゃになりながら、
実践したり、在ったりする気がする。



まあいいか。
格好悪いけど、生涯煩悩いっぱいの「人間現役」ですって感じで、
端から見ると面白いかも知れない。

2006-09-20

娑婆から戻ってまいりました。

というほど大げさなわけではないけれど、
しばしスピナビを忘れておった。。

最近、いかに言葉や柄が悪くても根本にスピリチュアリティを感じ続けて生活できるかっていう実験などをしており(嘘)。。


そういえば、先週のオーラの泉は三島由紀夫が降臨していてびびった。元プロレスラーの前田日明さんを助けてやってくれと言っていた(戦いに執着するのをやめられないのを)。


三島由紀夫が!
と次の日に会社でまくし立てる私の言葉を
驚くこともなく
普通に聞いてくれていた上司も上司だそういえば。

いい時代だなあなんだか・・。



ところで唐突ながら、宗教。

あれ、他人を変えるためにやるものじゃないですよね。

世の中には、その教義を元に、
あの人は〜だからだめだ、これは〜だからだめだ、
と決め付けて歩いている人がいるけれども、
あれほど宗教的でない態度はない。
どん引きです。


ともあれ、最近流行のweb2.0。
あれが多分にスピリチュアリティ的な性格を帯びていることに
わくわくな私です。

こう、宗教家と物理学者と経営者とプログラマが同じようなこと言っちゃってるのがすごいよね!!


この波の担い手になりたいな。ほんと。
いろいろがんばろっと。


・・とりとめないなあ。出直してこよう。


2006-06-09

ダヴィンチコードを観た。

ヨーロッパの町並みや建物や絵画がそりゃあもう素敵なのと、
展開が早いので楽しめました。
いいね!

しかし問題なのは、
キリスト教の文化や背景がない私にとって、
この映画の最大の謎は、

「えっと、何が結局問題なんだっけ??」

ってこと^^;。。
キリスト教徒じゃないアメリカ人の友人も、

「そうなんだよ、何が問題なのかよくわかんないんだよね。。」

と言っていた。
がんばれよアメリカ人(笑)!


で、2人とも少し考えて、

えっと、とにかくそれくらい問題なんだよ、
という話に落ち着いたのでした(←わかってない)。

何が問題かって、うーんと、イエスが神様か人間かってこと。

映画だと、どこかの国の首長様万歳ばりに、教会が体面を守るために大画策大会。
神の名の下にごきんごきん殺してる。

この話はもちろんフィクションだけど、
宗教戦争的なものとか、大体どれもそんな話だよなーと虚しくなって、
この、何が目的で何が手段だか分からなさ具合にくらくらする。

譲れないものがたくさんある宗教は大変だ。
しかし、どれだけ寛大になれる(許せる)かが宗教の真髄な気もするが。ううむ。

ってか譲れないものがあるのは宗教自体じゃないんだろうな。
それを取り巻く団体や組織の方なんだろうな。


とりあえず、日本の「現人神」という便利な言葉を教えてあげたくなりました。

ってか人間でも神でも唯一神でも八百万神でもいーじゃんねー。
(↑と言っている時点で理解していない。)



気に入ったせりふは二つ。

「聖書が天国からFAXで来たとでも思った?(にんげんが書いたんだよ)」

ってのと、

「結局人って、何を守って、何を信じるかじゃない?」

っての。
(正確じゃないけど、こんなかんじ)


そうそ、あなたが信じているものよりも、あなたが守っているものよりも、
あなたが大事。

2006-05-23

言語は結構低次である。

気をつけろ!(笑)

人間が物事を受け取る器官というのは、
とりあえず目と耳と触覚と味覚と嗅覚の五官、ってことになっている。


で、で、
私たちが情報を受け取るのって、目と耳がほとんどである。
しかもその両方のほとんどを「言語」が占めてる。
読む言葉と聴く言葉。

色々読んで、色々聴いて、
おりこうさんになったような気でいるんだけれども。。。


ところで言葉って言うのは、
100%、人間からのアウトプットである。
いうなれば、誰かの排泄物。
必ず。(そう、この文章も。)


人間にとって、「存在する」というのと「名前がある」というのは、ほぼ同義だ。
言葉がないと、存在がわからないのだ。
名前の無いものは、認識ができないのだ。
何かを本当に自分が感じていても、
それを言葉に現さない限りは、自分ですらそれを感じていることを気付けない。
人間はそういう仕組みになっているらしい。

だから昼夜問わず、私たちはこうやって、
感覚を言葉に置き換え続ける。
理論にして整備する。
因果を組み立てる。
構造を当てはめる。

世界は言葉へと翻訳され続けている。
理解されるために。


ところで面白いのは、
人間に世界を認識させるために世界を言葉に翻訳しているのが、
ほかならぬ人間自身であるということだ。


私たちは、ある程度言葉の枠組み(生まれた国の文法)を習得すると、そのルールに従って、様々な現象を言葉に変換し始める。

誰もがそうやって物を伝え、誰もがそうやって物を受け取る。



ただ、ただ、
言葉は世界自身じゃない。


世界は誰かのアウトプットでなんて出来ていない。
そんな二次情報の表象の上になんて世界は無い。


世界という一次情報は、言葉以前にある。


私たちは、言葉以前の”世界”を
きちんと受け取る器官を持っている、

はずである。
だって、その情報を言葉に翻訳してるんだから。


言葉以前に納得し、
言葉以前に拒否し、
言葉以前に共感し、
言葉以前に感謝している。
私たちは。

世界の、何かに。
「何か」と呼ぶことすら出来ない、言葉以前に。



人間が論理や損得や因果や、
そんな、自分自身ではない二次情報だけで物を判断しているのだとしたら、
それは自分と他人の排泄物で編まれた表象の上を、
無計画に張り巡らされた論理の轍の後を、
なぞっているに過ぎない。


そんなこと以前に、私たちは判断している。
判断しているのだ。



言葉は結構、低次である。
いつもの方法で見えたり、いつもの方法で聞こえなければ、
理解できないような頭の構造に、
ともすれば現代人はなってしまいがちだけれども、

そんな人間の決めた稚拙なルールにだけ則って、
本当の情報が届いているはずが無い。


もっと違う器官を開け!心を!
というと、バカにする人もいるけれど。

その閉じ方がだから低次なのである。
もったいないないくらいに。

目に見えるもの、言葉に出来るものだけで世界が出来ているのだったら、
世の中はポリゴンミスだらけのゲームよりひどい。
どんなにCPUを上げたって、記述されるのを待っている世界に限りは無く、
やがて私たちは、何一つなし終えることなく、疲弊して死ぬだろう。

そんなまどろっこしい生を何度も繰り返して、
私たちは今生も疲れきっているわけだけれども。


そろそろ気付かないかなあ。
言葉じゃないものの情報量の多さに。
言葉というバーチャルではない、
本当のリアルに。

2006-05-18

信じる力は難しい。

絶対大丈夫だと思い続けることと、
絶対ダメだとかって心配ばっかりすることは、
同じ強さに思える。

しかし、この二つは、全然性質が違う。

大丈夫だって思うことは、前も書いたけど、ある種の決意だ。
大丈夫にしてみせるという。
希望を持ち続けるには信念とか信仰とか愛とか、
そういう、信じるものが要る。

ダメだって思うことは、もっと簡単なことだ。
信念を維持する必要もなければ、決意もいらない。
ただ目の前にあるものを、疑えばいい。


何でも心配してばっかりな人に対して、
その有り余る不安(疑い=不幸を信じる)パワーをそのまま、
希望(信頼=幸せを信じる)パワーに変換すれば、
いいんでない?

とよく思ったりするんだけど、
これは実は難しいことに気付いた。

前述のように、ネガティブとポジティブは性質が全く違うエネルギーなので、
簡単に変換ができないのだ。

何かを不安に思うことは簡単でも、
何かに希望を託すには、信じる力が要る。

この、信じる力っていうのが、
どこから出てくるのかが、わからないのね。


大抵、いつも何かを不安に思っている人は、
自分を一番、疑っている。


自分を疑ったり自分を嫌っている人ほど、
他の人にとって迷惑な人種っていないないんだけど、
(倍のパワーで他人も疑ったり嫌ったりするから)

かといってうざがってばかりだと、
その人が辛そうで見ていられない。

自分を信じなよ、
って話をしたいけど、
そこが思う壺(?)
いかに自分が信じられないかを切々と述べ始める。

誰にも必要とされてないとか、
生きている意味がないとか。。

私も、いろいろと信じられない時期はあったはずなんだけど、
神経がずいぶんずうずうしくなってしまった今となっては、
まず何故誰かに必要とされなきゃいけないのかがさっぱりわからない上に、
生きてる意味なんか自分で適当に決めりゃーいーじゃんとしか思えないので、
こういう意見の慰めようがない。


んー。


信じることの難しさというのは、
信じることのパワーって、
信じてみないと分からないっていうことなんだよな。


信じるっていうのもまた難しくてさー。
信じていたのに裏切られた!
っていうタイプの信じるとは違うんだよな。

もっと深い信頼。誰かをすがるように信じるんじゃなくて、
自分の人生自体を肯定する信頼。
もしくは開き直り。
死にゃーしない、みたいな。

これをほんとは、伝えたいんです。
不安だ大変だとぎゃーぎゃーびーびー
うるさい(笑)愛する人たちに。


あ、そういえば逆に突き抜けた人もいるなあ。
その人は、ネガティブなことだったら余さずなんでも思いつくという
類まれなる(?)才能を持っているんだけど
何かあったら死ねばいいし、と言っていた。
ある意味ポジティブ(笑)?
(実際、この人はすごく明るい。)



なんにせよ、人が本当の意味での「信じる」を獲得する過程に興味があります。このごろ。
どうも内側からしか出てこない感じなんだけど。
その内側から出る契機って、何なのか。

もちろん、宗教でもいいんだけれど、
もちろん、理論でもいいんだけれど、
でもなんかそういう、何かの装置の力を借りずに、
自分が1人の人間として、そのままで、
その、信じる、を伝えられないかなと思う。


とりあえず、とりあえず。

私は信じるよ。あなたをさ。

ううむ。

2006-05-02

結婚式に行ってきたよ。

緑の日、友人の結婚式に行ってきた。
教会での式だ。

いいかげんこの年になると、
日和見仏教徒の私も賛美歌を覚えてきましたよ(笑)。
2個くらいだけど。
美しくていいなあ。
むかーし、吹奏楽やってたころ、賛美歌の旋律がいくつか
練習曲にあったんだよね。
ハーモニーが優しくて(易しくて)美しいからだろうねえ。

さてさて、素晴らしい式だった。
よくいるカタコト似非外人じゃなくてリアル神父様(日本人)だったので、分かりやすかった。

台本的なものは一切なく、
コリント使徒への手紙(愛の賛歌??)の暗唱、
昭和天皇が緑を愛した話(従事が雑草と言ったとき、生物学者であった天皇は雑草と言う名の草はないと戒めたそうで)、
結婚する2人のいくつかのエピソードを引いた、素晴らしい人生の捉え方の指南、
そして未来へ優しい忠告。
校長先生みたいな、盛りだくさんの、そして心からの言葉で、
式を厳粛に、そして暖かく進行する、
まさにMC(Master of Ceremony)であった。

新婦大泣き。いや、泣くわ。あれは。

また、会場も素晴らしかった。
教会を併設した、結婚式専用の小ぢんまりとした
場所なんだけれど、
調度、サービス、装飾、料理、何をとっても、
心がこもっているのが本当によく分かって、
気持ちよかった。

どこかで、せこかったり、ごまかしていたりすると
すぐに分かるけれど、
そういう隙がない。
その場所は、結婚式だけのために存在していて、
まさにそれが本業である人たちの、
プロ意識を見た。

清々しく、晴れた緑の日、
とてもいい気分を味わった。


教会いいなあとか思っちゃったよ。
キリスト教って、直接民主制的なのかな?
神と繋がる感じがするよね。
一人一人が。

いい意味で個人的、内省的になって帰ってきましたよ。

寺はねぇ、逆なんだよなあ。仏様と言うより、
世間、人様とより繋がっている自分を認識して帰ってくる。

どっちもいいもんだなあ。

(しかし実は最近神社萌え。神社はもう神社ごとに神様が違うからほんと飽きない。
ガチンコ勝負みたいな感じ。その緊張感がたまらないんだよなあ。
いやー・・・ほんと日本って迷う^^;)

2006-04-27

祈り

宗教にはそこそこ親しみ深く育った自分だけれど、
祈りってほんとは、
何をすればいいかわからなかった。

何かを無心に唱え続けるのもなんか違うし、
お願いを連呼するのもなんか違うし、
雑念を払おうとするのもなんか違うし、
何かに思念を送ちゃったりするのもなんか違うし、
世界平和をなんて朗読しだしてもなんか違うし、
どうしたもんかなあ、と、

祈りの場面ではいつも、そこそこそれっぽい仕草をして、
お茶を濁してきた。
実は。


大人になってやっとわかったことには。


なんだ、あれ、お礼じゃん。


祈るときと、感謝するとき、私は手を合わす。
何で同じ仕草なんだっけと考えた。

ああ、「有り難い」、からだ。


でも、今まで、
祈りだと、「これから」に対してのもので、
感謝だと、「それまで」に対してのものだ、
というイメージだった。

だから祈りは私にとって、”これからどうにかしてください”、
というお願いのようなイメージを持っていたんだけれど、
でもそれは私が思う宗教的な態度とは何か違っていて、
その違和感がぬぐえずにいた。


でも、祈りも、ありがとうでいいんだなあ、
と最近思った。


たとえば、”神社ではお願い事を並べるより一言、
既に守っていただいていることにありがとうと言うのがよい”
という話はよく聞いてはいたんだけれど、
それを自分の祈り全般に拡大して考えてみたことはなかった。

いちいち何かにお願いしてかなえてください、
っていうのがもともと好かない性格なので、
祈り=お願い的な何か、
と考えていた私は、自然と祈らない人間になっていたのだ。


でも、ふと、日常的に、生かされていることの感謝を
感じることが多くなって(年か??)、
そうすると、その感謝を示す場面がないことに気付いた。

普通の感謝は、何か目に見えること、実感出来ることをしてもらったときに、
そのタイミングで、手を合わせて、相手に伝える。


だけど、何もないとき、今日も無事なとき、今日も健康なとき、
今日もご飯が食べられたとき、今日も出かけられたとき、今日も眠れるとき、
それを実感したり示したりする場所がないのだった。


で、やっと帰納的に、気付いた。
あ、ここで祈るんだ、と。

なるほどねー。


日常的に感謝するのはいいことだ。
他人にいいんじゃなくて、自分にいい。
感謝するということは、受けている益を認識する作業だ。
人は感謝することによってまさに感謝する対象を認識する。
それどころか、増幅させて受け取りなおす。
だから、日常をぼけーっとスルーして生きるよりは、
折に触れて無理やりにでも感謝しまくって生きたほうが
はるかに確実に幸せというものである。

で、そこで、ただ単に突然「ありがとう」と言うだけでも
いいはいいんだけれど、
傍から見ると微妙だ。
脈絡なく(いや本人の脳内にはあるんだけど)ありがとうと独り言言いまくってる人、ってのも。


それよりは、手を合わせ、手を組み、目を閉じて、何かに、
そう、何かに、祈って、ありがとう、と言えるなら、

その仕組みは素敵だ。



幸せを生み出すのは祈りだ。

それは、祈って何かが叶えられるからじゃなく、

祈って一つのありがとうが生まれるからだ。
祈らなければ、認識されなかった幸せが、世に生まれた瞬間。


生活の中に、普通に祈りのある日々は素敵だ。
きっと幸せに満ちている。
もし色々と、辛いこともあってもそれはそれ、
でもまだありがとうが言える自分があるじゃん。どうにかなるじゃん。


そういうのをまた、取り戻したいと思った。

2006-03-20

ひとをバカにするということ

根拠なく、偏見で、人をバカにするならくだらないことだけれど、
たまに、ほんとに、こいつバカだ、としか言えないような時がある。

で、そういうときは、バカにしていいのだと思っている。

私は、どっちかというと、色んな人に「こいつバカだ」と言われて来た。

半分は、何も分かってない人の自己防衛の現れとしか見えなかったけど、
もう半分は、本人も痛く納得する内容であった(笑)。

悔しいと思うことも多かったけれど、そもそもその悔しいという感情を私に起こさせてくれた、その、バカにしてくれた相手に何度感謝したか知れない。

悔しいとでも思わなければ、私みたいなのは何にも頑張らないわけで。


『人をバカにしてはいけません』

道徳を分かったように振りかざした親の元で育った人は、
少しでも人をバカにしたようなことを言えない。
会話の文脈上そういうネガティブワードが出そうになると言い淀む。
はっきり言って、そういうのを、言い淀むその姿は醜い。

思っているから、言い淀むのだ。
言い淀んだところで、顔に現れ出た思考など消えやしないのだ。

黙って人をバカにして、自分はいい人だと思っている、人。

醜い。


言いなよ、思ったんならさ、一緒だよ。終わりだよ。
心口意の三業って習わなかった?
口に出さなきゃ心と顔に出ても業じゃないと思ってた?


別に、おごっているわけでも勘違いしているわけでもない。
ただ、自分の貧弱な経験と知識に照らし合わせて、
もし自分の後輩と呼べる人がバカだったら、
きちんとバカにしたい。
もちろん逆に、バカだと思ったら、言ってほしい。
陰でバカにされるよりよっぽどありがたい。
面と向かって言ってもらえれば、勉強するから。勉強できるから。
人なんていつまでもそのままなわけじゃない。

バカにする。
これは、ウェブだと、普通にはびこってる。
そんなのは醜い。
匿名に隠れたののしりは、思ってしまったのに言い淀んだ人と同じだ。
顔をさらして、本気で相手に伝えないと、意味がない。

もちろん人を選ばないと大変なことになるけど(笑)、
(特に、「バカにしてはいけません」「差別用語を言ってはいけません」という価値観を根拠無しに持っている人には・・)


でもさ、

「くだらない、バカらしい」
「なにおぅ!」
とか、

「あんた、頭、オカシイね」
「だろ?」
とか、

そうやって始まる、ほんとのコミュニケーションは、
出来るだけ、逃したくない。

2006-02-19

愛には愛で!

江本勝さんの『水は答えを知っている』は、
結構賛否両論ある本だ。

私は書店で写真をばーっとナナメ読みしただけだけど、
映画『What The Bleep Do We Know !?』を見たことがあって、
その中でキーコンセプトになっていた。この話。

ありがとう、とか、よい感じ(波動)の言葉を聞かせたり、
ラベルを貼っておいたりすると、水の結晶が美しくなる、ということだ。

映画だと、、”言葉が水にこれだけの影響を与えることが出来るのだとしたら、
身体の70%は水分で出来ている人間にはどれほどの影響を与えているのだろう”という問いに続く。
(映画自体は、ストーリーと、物理学者、医学者、神学者等へのインタビューがぐるぐると混ざり合っていて面白い。
想いが現実を創ったり変えたりすることが出来るか、というのがテーマ・・だと思う)


私はありだと思う。この話。

水に言葉の善悪がわかるんかい!
とかいうことじゃなくて、
明るく優しい想いと、暗く批判的な想いじゃ、
水だろうが人間だろうが動物だろうが、
伝わり方があきらかに違うだろう、ということだ。
こういうことは証明もなにも
日ごろ私たちは、感じながら、調整しながら生きている。


で、私が驚いたのは、
この話を道徳に使う人がいるんだということ。

いい言葉は水にこういう影響を与えます。
ですから、人間にもいい言葉を使いましょう・・。
という話に持っていくようだ。

素直な人ならいいんだけど、
普通先生が突然こういう話しちゃったら、
「うちの子になにオカシナこと教えてるんだ!」って
怒鳴り込んでくる親とか・・・いると思うよ。
というかいるみたい。
お疲れ様であります。


うーむ。
道徳に使いたくなる気持ちはわかる。
わかる、、んだけど、
なんだろうな、ちょっと逆な気がする。

もし、もしさ、今後、想念が物理的現象に影響を与えるってことが
どんな科学者の目にもあきらかになったとしてよ、
「だから悪口はやめましょう!」
って道徳でやるの?

・・やるんだろうなあ・・・・。


なーんか違うんだよねぇ。

「警察につかまるから悪いことしちゃだめ!」とか、
「隣のおじさんに怒られるからそれをしちゃだめ!」とか
抜かしてる親と一緒だよね、それじゃ・・。


大学くらいでやる心理学なら、”人間の物理学”だから、
自分がこう出れば相手はこう出ます、
みたいな法則性を教えて、それを踏まえてコミュニケーションを取る
っていう話をしてもいいけれど、

心理学じゃなくて、小中学生がやる道徳、っていうのは、
つまり、愛、でしょ?

愛はさ、水の結晶がきれいになるからいいことをするんでも、
隣のおじちゃんが怒るから悪いことをしないんでもなくて、
とにかく愛なんだよなあ。

理屈はいらない。
ジャストビコーズ! どうして? どうしても! っていうやつ。

たとえば、、
”なぜ人を殺してはいけないか?”
とかを理屈で教えるんじゃなくてさ。
そりゃいろいろあるよ、言い方は。
”人間には基本的な権利として〜”でも、”あなたが人を殺してはいけないんじゃなくて、あなたが殺されないでいられるという権利のことですが何か?”でも、”殺してもいいけどそれ相応のリスクを考えてね”でも、、、、。

そんなんじゃないと思うんだよなあ道徳って・・・。
親がさ、「人?殺す?ありえるかそんなこと!!!そもそもそんなことをいいかいけないか問うようなバカに育てた覚えはねえ!」って
心から真剣に怒ればそれでいいでしょ。
伝わるよ。

何でそれを「理屈」や「理論」で説明しないといけないんだろ。

ううむ。


人に悪口を言っちゃいけないかどうかは、
結晶の形の話を持ち出さなくても、
言われた人の気持ちになればそれで分かるよ。
そういう普通の共感力を持った大人をたくさん見てれば、
普通に学ぶよ。

昔っからそうやって伝えてきたんじゃん。

美しい言葉で、水の結晶が美しくなることは素晴らしいけれど、

それ以前に、
美しい言葉で、人が美しいんだよ。
美しい言葉で、人が幸せなんだよ。
美しい言葉で、人が楽しいんだよ。


知ってるでしょそんなこと。みんな。
理屈じゃなくて、現実を見ることにどれほどのインパクトがあるか。

そーいうの自らの身をもって示すこと、
親や先生が放棄してどーすんだろ。。。

2006-02-03

女系天皇とか女性天皇とか。

知りもしないでこの話題、ってのも気が引けるんだけど、
なんかよくわかんないときは書きながら整理するに限る。

今問題になってる皇室典範改正案with女系天皇容認、
反対の人も賛成の人も、一応意見はわかるといえばわかる。

女性天皇はありでいいのね。
女系が問題なのね。

女性天皇っていうのはその名のとおり女帝、
それは今までも居たと(多少)。

でも男系の歴史は守られいた。
常にパパが天皇である家系であること。
染色体のYを守ること。
(男XYと女XX、染色体Yは男から男へ引き継がれていく。
このYが天皇家以外から入ってきたんなら万世一系がおじゃんになっちゃうじゃん、
ということらしい。)

それを女系OK!にすると
どこの馬の骨だかわからないYが入ってくるじゃん!みたいな、
何か守られていたものが無くなってしまうような
気になるのですね。うむ。


別に女性差別だとはまーーったく思わないけど。
けど。


天皇って案外”象徴”じゃないんだなあと
しみじみ思った次第。

みんなさ、血筋を崇めてるのかな。
その、染色体Yの連鎖という。
その事実がないと崇められないのかな。
それを守らないと崩壊してしまうくらい、想いは弱いものなのかな。
オンリーワンは血統書がないと主張できないのかな?


スピリチュアリティの観点から言うと、
多分、
血にはスピリットは宿らないでしょ。
人でしょ。教育でしょ。愛でしょ。存在そのものでしょ。

そうやって天皇という象徴をつないでいくんでしょ。
国民が本当に愛して、誇りに思うことによって、
天皇を通して私たちは日本を大切にしてるんでしょ。

だいたい大元は神様なんだから、
もう血とかに根拠を置かなくても、
私たちは天皇を間違わないし、
きっと、大丈夫な気がするんだけどなあ。。。


でもわかんないね。血筋というどんなアホにでもわかる
根拠があるから保てている何かを天皇から取っ払ってしまっても、
ちゃんと、精神性や愛のみで、
しっかりと誇りを持って日本の歴史をつないでいけるほどの
度量が私たちにあるか、
それを危惧しているのかもしれない。女系反対派の人たち。

私は天皇に依存も反対もしていないけれど、
美しい心を持った方たち、本当に尊敬している。
ああ日本にはこの人たちがいてくれた、って
とてもほっとするところがある。


私たちが本当に守りたいのは、目に見えない何かだ。
それを論理や理屈の問題にすり替えたり、
男女平等の話に転化したりしようとする時点で、
何か精神性の衰えを感じる。

もっと愚直に直視したい問題だと思う。
どんな結果になっても、
私たち一人ひとりの心の中で。